徹底して山形に密着したフリーペーパー

~やまがた~藩主の墓標/(28)上杉の城下町、米沢

2015年9月11日
 米沢は戦国時代、伊達氏の本拠地だった。「独眼流」で知られる17代・政宗が会津を蚕食(さんしょく)したが、豊臣秀吉の「奥州仕置」により政宗は米沢を含む会津領を召し上げられてしまう。

 代わって領主となった蒲生氏郷(がもう うじさと)の死後、越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)が120万石で入部、うち米沢30万石は秀吉の命で景勝の家老・直江兼続(なおえ かねつぐ)に与えられた。

~やまがた~藩主の墓標/(28)上杉の城下町、米沢

 秀吉の死後、天下取りへの野望をあらわにする徳川家康に上杉は反発、兼続の手による後世に名高い「直江状」で家康を挑発する。
 激怒して上杉討伐軍を起こす家康。そのすきを狙って上杉と密約を交わしていたとされる石田三成(いしだみつなり)が挙兵するが、それを知った家康は途上で討伐軍を引き返し、関ヶ原の合戦に及ぶ。

 上杉は一転して山形の最上義光に矛先(ほこさき)を向ける。攻撃軍を率いたのは兼続だった。
 上山城、長谷堂城を死守した最上勢が、関ヶ原で家康が勝利したことを知って退却する直江軍を追撃したことは以前に紹介した。
 この時、人気コミック「花の慶次」で知られる前田慶次郎らが奮戦、見事な退却戦は最上勢からも称賛されたという。

 関ヶ原の合戦で敗者となった景勝は家康に謝罪し、家名存続は許されたが、領地は米沢を含む山形県の置賜地方と、現在の福島県の福島市、伊達市、伊達郡を合わせた30万石に削減された。つまり兼続の旧領分だけに押し込められることになったわけだ。
 兼続の城下だった当時の米沢は人口6000人ほどの小さな町だった。そこへ120万石の家臣と家族3万人、それに越後以来従って来た商人、職人がどっと移住して来たのだから、大変な混乱だった。既存の家屋では収容しきれず、郊外に小屋を建てて住む人がおびただしかった。

 領地が4分の1になった時、家臣を減らそうという意見もあったが、景勝、兼続は「国の基は人である」として肯(がえ)んじなかった。美談ともいえるが、後に貧乏をかこつようになる米沢藩の最大の原因がここにあった。

加藤 貞仁