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やまがた 藩主の墓標

 上山藩では7代藩主の松平信行に続き、信行の長男で8代藩主の信宝(のぶみち)も名君として知られる。
2015年8月28日
 上山藩の初代藩主、藤井松平家の信通(のぶみち)が享保7年(1722年)、大坂加番(おおさかかばん)の在任中に死去し、家督はわずか6歳の長恒(ながつね)が相続した。その長恒は病気を理由に16歳で隠居し、養子信将(のぶまさ)に藩主の座を譲るが、長恒は64歳まで存命している。
2015年8月14日
 上山藩主として明治を迎えたのは藤井松平家だ。同家は徳川家康の曽祖父から分かれた名門である。ただ元禄10年(1697年)に最初に入部した信通(のぶみち)は分家だった。
2015年7月24日
 土岐(とき)家が元禄5年(1692年)2月に越前(福井県)へ去った後、上山藩は5カ月ほど天領(幕府領)になった。その後に入部したのは、飛騨高山(岐阜県)藩主だった金森頼時である。
2015年7月10日
 下総相馬藩(茨城県守谷市周辺)から土岐頼行が上山藩2万5千石に移封されたのは寛永5年(1628年)3月。以後、2代頼殷(よりたか)が元禄5年(1692年)に越前野岡藩(福井県越前市)へ移るまでの64年間、上山は土岐氏の城下町として整備されていく。 
2015年6月26日
 上山は戦国時代、最上氏と伊達氏が争奪を繰り返した羽州街道の要衝である。元和8年(1622年)に最上氏が改易された後、上山には新たな藩が設置された。
2015年6月12日
 水野忠精(ただきよ)が山形藩主になったのは弘化2年(1845年)、12歳の時だった。
2015年5月22日
 弘化2年(1845年)に秋元志朝(あきもと ゆきとも)が上州館林へ去った後の山形には、遠州浜松から水野忠精(みずの ただきよ)が5万石で入部した。父は「天保の改革」を指揮した老中・忠邦。山形移封は改革に失敗した忠邦への懲罰だった。
2015年5月8日
 山形への移封を命じられた元老中で川越藩6万石の秋元凉朝(あきもと すけとも)が、荒廃した山形城に入るのを嫌がったことは前回触れた。明らかな左遷だったからであろう。
2015年4月24日
 明和元年(1764年)に松平乗佑(のりすけ)が三河国西尾藩(愛知県西尾市)に移った後、山形藩領は3年間、幕府の直轄領(天領)となった。
2015年4月10日
 堀田正亮(まさすけ)が佐倉藩(千葉県佐倉市)10万石へ移った延慶3年(1746年)5月、入れ替わりに佐倉から松平乗佑(のりすけ)が6万石で山形へ入部した。
 乗佑の父・乗邑(のりさと)は老中首座として8代将軍吉宗の「享保の改革」を推し進めた傑物だった。
2015年3月27日
 山形藩主だった堀田正仲が福島への移封を命じられたのは貞享3年(1686年)7月。福島の実収は少なく、「悪地のみをさずけられ、家計窮迫し」という当時の記録がある。
2015年3月13日
 奥平家が宇都宮に去った貞享2年(1685年)、山形藩10万石には堀田正仲が入部した。
2015年2月27日
 奥平内蔵允(くらのじょう)との刃傷事件で改易となった奥平隼人は江戸に逃げた。切腹した内蔵允の嫡子・源八(当時12歳)と、山形藩主・奥平昌能(まさよし)の不公平な裁定に憤って浪人となった40人以上の藩士らの仇討(あだうち)を恐れたからだった。
 隼人の江戸逃亡を手助けしたのは、隼人と兄弟のように育てられた藩主の昌能だったとされる。
2015年2月13日
 寛文8年(1668年)8月、奥平松平家2代目の忠弘が宇都宮へ移封後の山形には、入れ替わりに宇都宮から本家筋の奥平昌能(まさよし)が9万石で入部した。ただ宇都宮では11万石だったから2万石の減封だった。以後、山形は譜代大名の左遷地のようになっていく。
2015年1月23日
 結城松平家の直基が姫路へ移封後の山形には慶安元年(1648年)、入れ替わりに姫路から松平忠弘が入部した。
2015年1月9日
 保科正之が会津に去った後、山形に入部したのは越前大野5万石の藩主だった松平直基である。直基は徳川家康の2男・結城秀康の5男である。
2014年12月26日
 保科正之が山形20万石の藩主の座にあったのは寛永13年(1636年)8月~同20年7月、年齢では26歳から33歳までの7年間である。
2014年12月12日
 寛永13年(1636年)、山形藩主だった鳥居氏が改易され、改めて信州高遠藩を与えられたことは前号で触れた。代わって山形藩主として入部したのは高遠藩主だった保科正之である。この正之の来歴について述べたい。
2014年11月28日
 鳥居忠政の死後、山形藩22万石は長男の忠恒が相続したが、わずか8年後の寛永13年(1636)7月、33歳の若さで病没してしまう。嗣子(しし)はいなかった。
2014年11月14日
 鳥居忠政は寛永5年(1628)9月に63歳で没するまでの6年間、山形藩22万石の藩主の座にあった。必ずしも凡庸な人物ではなかったと思われるが、後世の評価は分かれる。
2014年10月24日
 最上家が去った後の山形城には、平藩(福島県いわき市)10万石の鳥居忠政が22万石に加増されて入部した。
2014年10月10日
 山形藩57万石、最上家の改易が決定したのは元和8年(1622年)8月。義光が没してわずか8年後で、藩主は17歳の3代目・義俊だった。
2014年9月26日
 最上義光の死後、山形藩57万石は改易に至る。悲運としか言いようのない結末で、ことの顛末を振り返ってみよう。
2014年9月12日
 豊臣秀吉に臣従(しんじゅう)して所領を安堵された最上義光(よしあき)だったが、様々な理由から次第に秀吉と距離を置くようになり、徳川家康に近づいていく。そのため慶長5年(1600)9月の関ヶ原の合戦に際し、山形は最大の危難に襲われることになる。
2014年8月22日
 現在、NHKのBS放送で大河ドラマ「独眼竜政宗」が再放送されている。渡辺謙演じる主人公の伊達政宗が颯爽(さっそう)としているのとは対照的に、政宗の母の兄で故原田芳雄演じる最上義光は陰湿な人間に描かれている。
2014年8月8日
 江戸時代、東北6県と北海道にはちょうど50の藩があり、藩主、つまり「お殿さま」は延べ427人いた。断絶した藩もあって、戊辰戦争に遭遇したのはそのうち33藩である。
2014年7月25日