追想録
洋菓子・パン製造のシベール(山形市)の創業者で、山形経済同友会代表幹事なども務めた熊谷眞一氏(くまがい・しんいち)が8日、心筋梗塞で亡くなった。79歳。
2021年2月12日
山形市の老舗料亭「亀松閣」の社長・料理長で、元県料理飲食業生活衛生同業組合専務理事の笹原智美氏(ささはら・ともみ)が5日、急性心筋梗塞で亡くなった。59歳。
2017年4月14日
音楽教員として山形東高や山形西高で合唱部を指導し、全国学校音楽コンクールで両高を全国優勝に導いた阿部昌司氏(あべ・まさし)が11日、肺炎で亡くなった。84歳。
2013年9月27日
井上ひさしさんは私にとって師匠であり、同志であり、義兄弟であって、お守りでもあった。その4つを同時に失った日、奈落に落ちた。夜空にはずっと前から盟主不在の「ひさし座」という星座があった。
2010年4月23日
東北在住者で初めて人間国宝に認定され、先月23日に88歳で死去した山形市銅町の高橋敬典(けいてん)(本名・高治(たかじ))さんの葬儀が4日、山形市の葬儀場で営まれ、参列した約260人が山形鋳物の発展に貢献した故人の業績を偲び、冥福を祈った。
2009年7月10日
6月1日、でん六会長で前山形商工会議所会頭の鈴木伝四郎氏(すずき・でんしろう)が肺炎で亡くなった。81歳。
昭和2年、鈴木伝六氏の長男として山形市に生まれ、山形商業学校(現在の山形商業高校)を卒業後、地元の繊維会社に就職。25年に父の伝六氏とともに菓子製造の個人商店「鈴木製菓所」を設立し、3年後の28年、株式会社化への移行に伴い専務就任。
昭和2年、鈴木伝六氏の長男として山形市に生まれ、山形商業学校(現在の山形商業高校)を卒業後、地元の繊維会社に就職。25年に父の伝六氏とともに菓子製造の個人商店「鈴木製菓所」を設立し、3年後の28年、株式会社化への移行に伴い専務就任。
2008年6月13日
2月23日、タカミヤホテルグループ会長の岡崎彌平治(おかざき・やへいじ)さんが亡くなった。78歳。
昭和4年、享保元年(1716年)から続く蔵王温泉の老舗、「高見屋旅館」当主の第14代彌平治氏の長男として生まれる。幼名は博彌(ひろみ)。
昭和4年、享保元年(1716年)から続く蔵王温泉の老舗、「高見屋旅館」当主の第14代彌平治氏の長男として生まれる。幼名は博彌(ひろみ)。
2007年3月9日
1月5日、荘内銀行顧問の佐藤英男さんが亡くなった。享年71。
昭和11年に山形市で生まれ、山形南高校から山形大学を経て荘内銀行へ。ほぼ一貫して営業畑を歩み、仙台支店長、常務・山形支店長などを歴任、庄内地区が地盤の荘内銀にとって手薄だった仙台地区や山形地区の顧客開拓に功績を残した。平成8年から11年まで専務。
昭和11年に山形市で生まれ、山形南高校から山形大学を経て荘内銀行へ。ほぼ一貫して営業畑を歩み、仙台支店長、常務・山形支店長などを歴任、庄内地区が地盤の荘内銀にとって手薄だった仙台地区や山形地区の顧客開拓に功績を残した。平成8年から11年まで専務。
2007年1月12日
12月11日、鈴木製粉所(山形市滑川)社長の鈴木彦市さんが亡くなった。享年69。
昭和13年に山形市で生まれ、山形商業高校を卒業後、家業の鈴木製粉所へ。平成3年に3代目社長を継ぎ、人生を仕事とともに歩み始めた。
昭和13年に山形市で生まれ、山形商業高校を卒業後、家業の鈴木製粉所へ。平成3年に3代目社長を継ぎ、人生を仕事とともに歩み始めた。
2006年12月22日