徹底して山形に密着したフリーペーパー

日大山形高校野球部監督 荒木 準也さん

2013年9月13日
荒木準也(あらき・じゅんや) 1971年(昭和46年)寒河江市生まれ。陵南中学から日大山形校に進み、88年夏に外野手として甲子園出場。卒業後、東北福祉大、プリンスホテルで野球を続け、アトランタ五輪日本代表の最終候補にも。プリンス野球部が解散する2000年に郷里に戻り家業の鋼材リサイクル会社へ。02年から現職。06年夏に県勢初の甲子園8強入り、13年夏に4強入りを果たす。41歳。
日大山形高校野球部監督 荒木 準也さん

すぐそこにあった日本1
   逃したことが1番悔しい――


――プリンス解散時が29歳。選手としてまだやれたんじゃないですか?

コールド負けが転機に

 「他所への移籍も考えましたが、やれてもせいぜい35ぐらいまで。結婚して子どももいたし、長男なのでいずれは家業を継ぐという約束を親父としていましたので」
 「だから監督の要請があった時も最初は断りました。理由? 社会人野球と違って高校野球は週末がメイン。家族からも反対されたし、僕自身、あまり興味がなかった」
 「でも、やっぱり野球が好きだったんでしょうね。周囲を見渡しても自分しかいないのかなと」
――就任2年目の県予選初戦でコールド負けしちゃうんですね(苦笑)
 「自分の中ではあれが転機になった。高校野球は技術だけではダメで、人間として大きくしていかないと勝てない、と。コールド負けして以来、生徒たちには心技体に『知識』『運』を加えた5つの要素が必要だと教えるようになりました」

2度目の「県勢初」

 「生活についてもうるさく言うようになった。挨拶や道具の手入れはもちろん、『規律ある生活をしろ』『裏表があってはダメだ』とクドいほど言い聞かせています」
――その5年後に夏の甲子園で県勢初の8強、そして今回4強です。
 「奥村(展征主将)たちが入ってきて、この世代が3年になった年は期待できるという思いはありました。彼らも甲子園4強が目標だったし」
――留学生じゃなくほぼ県内選手が占めていたところも泣けました。

「ありがとう」の嵐

 「実は選手の出身にはこだわってないんですよ」
――え~! そこはこだわって欲しいなあ。
 「ただ他県に選手を取りにいったとしても寮がないんですよ(苦笑)」
――あれ以来、生活は変わりましたか。
 「道を歩いていても知らない人から『感動をありがとうございました』なんて声をかけてもらったりで、行動範囲が狭まりましたね、ハハハ」
――「ありがとう」もですけど、ボクはそれ以上に悔しいな。

チャンスはあったのに

 「僕が1番悔しい。4校の中から優勝するところが1校でるわけじゃないですか。どこにもチャンスはある。今まで見えなかった景色が見えた。日本1がすぐそこにぶら下がっているのに取れなかった。悔しいです」
 「いま現在の心境ですか?こうなったら日本1になって監督をやめてやりてえなと(笑)」