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<荒井幸博のシネマつれづれ> 追悼・大島渚監督

2013年1月25日
社会派の偉大な映画人

 大島渚監督が15日、17年に亘る壮絶な闘病生活の末、肺炎により80年の生涯を閉じた。

<荒井幸博のシネマつれづれ> 追悼・大島渚監督

                 
 大島監督は京大卒後の1954年に松竹入社。当時は邦画全盛期。ただ松竹は「東京物語」「君の名は」などがヒットしていたものの、黒澤明監督を擁(よう)する東宝、中村錦之助らが活躍する東映、市川雷蔵や勝新太郎がデビューした大映、そして石原裕次郎らを抱える日活などに比べ若い息吹は育っていなかった。
 そんな状況下で将来を嘱望(しょくぼう)されたのが大島監督だった。助監督5年を経て1959年に「愛と希望の街」で初メガホンをとり、「青春残酷物語」「太陽の墓場」とヒット作を連発。篠田正浩、吉田喜重らと共に松竹ヌーベルバーグの旗手ともてはやされる。
               
 ただ松竹内部では社会の矛盾を鋭くえぐる大島監督を異端児扱いするようになる。対立が決定的になったのは60年に発表した「日本の夜と霧」。安保闘争をテーマにしたこの作品を松竹は公開4日目で打ち切り、それに猛抗議した大島監督は松竹を退社して独自の映画製作会社を設立する。
               
 逆境下でもその後、「白昼の通り魔」「絞死刑」「帰って来たヨッパライ」「儀式」「新宿泥棒日記」など先鋭的な作品を次々と発表。そして76年、阿部定事件を題材に性描写のタブーに挑戦した「愛のコリーダ」で国際的名声を不動のものにする。
 続く78年の「愛の亡霊」でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞。83年の「戦場のメリークリスマス」後は映画界の枠を越え、テレビなどで言論人としても活躍していた。
               
 「彼は戦う人。いつも矢面(やおもて)に立ち、仁王立ちになって映画を作り続けた」という篠田監督の言葉がピッタリの偉大な映画人だった。献身的な介護で、晩年は監督と濃密な日々を過ごした小山明子夫人は20年ぶりに出演した舞台初日を終えて「やるべきことは全てやりました。悔いはありません」と淡々と語った。


<荒井幸博のシネマつれづれ> 追悼・大島渚監督
荒井幸博(あらい・ゆきひろ)

1957年、山形市生まれ。シネマパーソナリティーとして多くのメディアで活躍、映画ファンのすそ野拡大に奮闘中。現在FM山形で「荒井幸博のシネマアライヴ」(金曜夜8時)を担当。