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最上義光研究の第一人者 片桐 繁雄さん

2013年1月25日
片桐 繁雄(かたぎり・しげお) 1933年(昭和8年)山形市長谷堂生まれ。山大教育学部卒業後、県内の小中学校で教師や校長を務め、定年後は最上義光歴史館事務局長や上山市立図書館館長を務めながら最上義光研究を続ける。2009年「最上義光の風景」を上梓するなど斯界の第一人者。79歳。
最上義光研究の第一人者 片桐 繁雄さん

山形の礎を築いた義光公
  没後400年機に再評価を

――今年は義光公の没後400年です。

今年が没後400年

 「最上氏は室町時代に羽州探題に任じられた斯波兼頼が始祖で、義光は11代目の当主。生涯、今の山形市に蟠居(ばんきょ)していますが、家督を相続した時は周辺支族が従わず、四面楚歌の状況でした」
 「それでも内政を重視して力を蓄え、徐々に反対勢力を従えて山形を統一します。伊達政宗、上杉景勝といったライバルとの抗争を繰り広げながら、関ヶ原の戦いでは徳川家康側の東軍の勝利に貢献、戦後の論功行賞で庄内を合わせ山形全県57万石を領しました」
――当時、57万石っていうと全国5番目の大大名なんですよね。
 「家臣や領民にも慈愛を持って接したほか、町割りや産業振興など山形の発展の礎(いしずえ)を築いた功績は多大です。和歌や連歌などにも秀でた花も実もある武将でした」
――でも、なぜか全国的にも地元でも人気はイマイチなんですよねえ。
 
歪められたイメージ

 「江戸期から明治、大正にかけては英雄視されていたんですよ。大正時代までは『最上義光祭』という武者行列が行われて偉業を称えていた。評価がガラリと変わったのは昭和以降です」
――どういうふうに変わったんですか?
 「山形統一の過程で謀略をめぐらせて支族を暗殺したと。権謀術数を弄(ろう)する陰湿な人物像に歪められていった」
――そうしたことは史実にはあるんですか?
 「それがほとんどないんです。大半がねつ造」
――百歩譲ってそうだったとしても、あの時代は信玄だって信長だってもっと悪辣(あくらつ)なことやってますよ。
 
銅像建立時も紛糾

 「霞城公園に銅像を建立する際にも反対がありました。あんな好戦的な人物の銅像を平和都市である山形市の公園に建てるとは何事かって」
 「イメージを悪くした決定打は昭和62年放送の大河ドラマ『独眼竜政宗』。主人公の敵役の義光を原田芳雄さんが憎らしく演じて(苦笑)」
 
紛うことなき名君

――県外出身のボクはご多分に漏れずあまり好きな武将ではなかったんですが、調べるうちに紛うことなき名君だと。
 「歴史上、山形が生んだ最大の偉人でしょう。没後400年が再評価のきっかけになればと願っています」
――ホントに地元でこそ正しく評価してあげないと黄泉(よみ)の義光公も浮かばれませんよね。