徹底して山形に密着したフリーペーパー

映画監督 村川 透 氏

2009年7月24日
村川 徹(むらかわ・とおる) 1937年(昭和12年)村山市生まれ、本名・高橋透。59年に日活入社。助監督として徐々に頭角を現し、72年公開の日活ロマンポルノ映画「白い指の戯れ」で監督デビュー。その後、日活を退社して山形に帰郷、岳父で先ごろ死去した人間国宝の鋳物職人・高橋敬典氏の下で働くかたわら、実兄の村川千秋氏による山形交響楽団設立運動に参加。76年、人気テレビドラマシリーズ「大都会」で監督復帰、78年からは故・松田優作を主演に起用した「最も危険な遊戯」「蘇る金狼」「野獣死すべし」などの作品で監督として不動の地位を獲得する。72歳。
映画監督 村川 透 氏

「チャラチャラ」を封印
  ひたぶるの映画人生——

——初めてお目にかかりますけど、お若いんでビックリしました。
 
子ども時代の「楯岡座」

 「よく言われる。大学時代は山岳部だったのでロケハンで山に登っても誰もついてこれない。丈夫に生んでくれた親にも感謝だ」
——ご出身は村山のどのあたりなんですか?
 「楯岡。今はサビれてるけど、当時は映画や芝居をやってた『楯岡座』なんてのがあって、数寄者の父が連れてってくれた。大川橋蔵(故人)なんかも楯岡座の公演で山形に来てうちに泊まってったこともある」
 「映画との本格的な出会いは南高時代。山形市内の『霞城館』『旭座』なんかに入り浸ってて、ある日『誰がために鐘は鳴る』だったか『陽の当たる場所』だったか、観終わって震えるような感動で雨の中をボーゼンと彷徨い、小白川の下宿に戻ったら高熱でホントに震えてた(笑)」
 「そんなだったから第一志望の東北大は×。二期校だった福島大学に滑り込んで、ここでは大いに青春を謳歌して、当時は日の出の勢いだった日活に入社したの」
——それから。 
 
東北出身の悲哀味わう

 「東北出身の悲哀を味わうわけだ(苦笑)。まわりは東大や慶応を出たエリートや洗練されたヤツばっかり。要領はいいし、大部屋の女優にもモテるし。こっちは不器用でぶっきら棒で」
——つまりモテなかったと(苦笑)。
 
悔しさバネに仕事

 「だから仕事で見返してやろうと。助監督時代はドロ臭い仕事や他人が嫌がる仕事も率先してやった。このあたりが山形人なんだろうね」
 「まわりには大女優と結婚したヤツも大勢いたけど、結婚は絶対に山形の女性と見合いでって決めてた。そうやって地道に努力を重ねていくうち大きな仕事を任されるようになってきたのね」
——初監督作品がロマンポルノなんですね。
 「評価された作品だったけど、やっぱりダメなのよ。恥ずかしくて山形に帰ってきちゃった」
 
山形のDNA

——で4年後に東京から呼び戻されて。ボクは大学時代に監督作品の大半を観てて、多分ハードボイルドっぽい人だろうと勝手に想像していて、お会いすると実際にカッコいいんですけど実に山形的な人だと。
 「山形県人だもん」
——(小声で)誰にも言いませんけど、ホントにどの女優さんともなんにもなかったんですか?
 「だから、ないんだって(苦笑)」