「判官びいき」の系譜/最上 義光:第11回
明からの偽使節に続いて本物の明皇帝の使いが来日するが、親書には秀吉を明の属国の日本国王に任ずるとあった。激怒した秀吉は第2次朝鮮出兵(慶長の役)に踏み切るが、その直前、義光は聚楽第事件(豊臣秀次事件)に巻き込まれる。

秀吉はなかなか男子に恵まれず、50歳を過ぎてようやく側室の淀君との間にもうけた鶴松も天正19年(1591年)に夭折(ようせつ)していた。自身の年齢も考え、血筋への権力継承のため秀吉は関白職を甥の秀次に譲った。
ところがその2年後、再び淀君との間に拾丸(ひろいまる・のちの秀頼)が生まれる。拾丸が順調に育つと秀吉にとって秀次は疎(うと)ましい存在になり、拾丸誕生から2年後の文禄4年(1595年)7月、秀吉は秀次に謀反の疑いをかけ、関白職を剥奪(はくだつ)して高野山に追放したうえで切腹を命じた。
さらに8月2日、秀次の妻子34名は京都市中引き回しの上、三条河原で処刑されてしまう。その中に義光の娘・駒姫が含まれていたのである。
義光は秀吉が天下を取って以降、忠実な家臣として精勤したが、次の権力者と目される秀次とも良好な関係を築こうとした。当時の大名としては当然の政略である。
その一環として駒姫は秀次の側室となったのであろう。義光の必死の助命嘆願もむなしく、駒姫が処刑されたのは数えで15歳の若さだった。
追い打ちをかけるように8月16日、義光の正室で駒姫の母の大崎殿が亡くなっている。娘の非業の死を嘆いての自殺であった可能性が強い。
短時日(たんじじつ)に妻子を喪(うしな)った義光は、自身も謀反に関与していた疑いを掛けられるが、この危機的状況は家康の取りなしで救われたとされる。
家康とは朝鮮出兵時に滞在した肥前名護屋でも連絡を取り合うなど、良好な関係にあったが、この事件でより強い紐帯(ちゅうたい)で結ばれるようになる。
一方、秀吉に対しては、妻子を死に追いやる仕打ちに対して深く恨みを抱いたであろう。老練な義光のこと、表面には出さず、我慢しながら仕えていたであろうが。
この事件が秀吉没後、関ヶ原の戦いで義光が東軍(家康側)に付くことにつながっていく。