「判官びいき」の系譜/最上 義光:第10回

その手紙には、当時半島にいた日本軍が首都の漢城(かんじょう・現在のソウル)から撤退して南端の釜山(ぷさん)に集結していること、義光も渡海を命じられていたが現地では兵の食糧に事欠く有り様だったため、どうやら行かずにすみそうなこと、現地で戦意を喪失した大名たちが容赦なく処罰されていることなどが報告されている。
注目すべきは手紙中の「命があるうちにいま一度最上(山形)の土を踏み、(山形の)水を思う存分飲んでみたい」という趣旨のくだりである。
いつ終わるかも見通せない不毛な戦に嫌気が差し、思わず本音をもらしたのだろう。どうやら義光はホームシックにかかっていたと見え、郷土愛の一端もうかがえる。
この手紙からは、ある時期から意図的につくられたとしか思えない「策略好きで冷徹」というイメージとは全く異なり、繊細で人間味あふれる義光像が垣間見える。実に興味深い史料である。
手紙にはさらに、やはり名護屋で待機中の徳川家康が渡海の命を受けたことを知った義光が家康の許に使いを遣ったところ、「お互いに渡海を免れそうで命拾いができそうだ」と喜ぶ返事が来たことも記されている。
秀吉の無謀な朝鮮出兵に周囲は辟易(へきえき)していたが、この手紙からは義光と家康が思いを共有し、困難な状況のなかで親密さを増していったであろうことが推察される。
義光がこの手紙を書くのには動機があったと思われる。実は手紙を書く3日前、名護屋に明の皇帝から派遣されたという勅使が到着していたのである。「すわ、和平の実現か?」と誰しもが思ったであろう。
だが、この勅使は明の朝鮮派遣軍が皇帝の許しもなく勝手に仕立て上げたものだった。その一方、同じころ朝鮮では日本軍を率いる小西行長が秀吉の許しもないまま、日本が中国の従属国になるという条件で勝手に講和してしまっていたのである。
秀吉を除く日本側も明も朝鮮も、とにかくこの戦を一刻も早く終わらせたかったのだろう。