落語家 立川 志らぴーさん

昭和の雰囲気を醸す落語
山形での普及にもつなげたい
――山大在学中に落語に目覚めたと。
山大で落語と出会う
「大学2年の終わりごろ、県立図書館でたまたま手にしたCDに収録されていた3代目三遊亭金馬の落語にハマりまして。それから昭和の名人を中心にいろんな落語を聞くようになって」
「特に衝撃を受けたのが、すでに亡くなられていた立川談志師匠の毒舌でダイナミックな落語。落語との出会いから半年もたたないうちに『将来は立川流の落語家になろう』と心に決めました」
――山大に落研は?
「ないんですよ、これが。作ろうと募集をかけてみたんですが、1人も集まらなくて(苦笑)。だから落語は県立図書館に通ってCDを借りて勉強するしかなかった。私にとっては図書館がいわば寄席でしたね」
――で、卒業して。
「1年間は入門後の生活資金に充てるため東京でバイト生活。お金がある程度たまったところで今の師匠である立川志らくに手紙をしたため、面接にこぎつけました」
志らくさんに弟子入り
「面接時に師匠からクギを刺されたのは、『人間関係や収入など簡単な世界じゃないよ』ということ。そんなことは覚悟の上。立川志らくの弟子になりたいという一念を訴え、その思いが認められて入門できました」
――それから?
「師匠の身の回りのお世話やカバン持ち、運転手、それから落語会の開口一番や楽屋仕事などの下働きをする〝前座〟を計7年間務めました。この間はいわゆる下積みで、収入はほぼゼロ。仕方なく親のスネをかじってました(苦笑)」
――1月に晴れて〝二ツ目〟に昇進しました!
1月に晴れて二ツ目に
「志らく一門では前座から二ツ目に昇進するには、落語を50席覚えることのほか、三波春夫の浪曲『俵星玄蕃』を踊りのフリ付きで覚えることという独自の条件がありまして」
「その条件を何とかこなして昇進できました。志らく師匠からは『昔懐かしい昭和の落語家の雰囲気がある』というお褒めの言葉をいただいて」
――「志らぴー」って変わった芸名だけど…。
「師匠が、ボクの顔が珍獣のオカピに似てるからと(苦笑)。初高座30分前に命名されました」
――暮らしぶり、変わりました?
「まだまだ。今も親のスネかじりで(苦笑)」
27日に山形市で落語会
――5月27日に山形市で二ツ目昇進落語会が。
「志らく師匠にも出ていただきます。今後の目標は〝真打〟昇進を目指すのと、第二の故郷の山形で落語の普及に貢献していきたいですね」