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「判官びいき」の系譜/源 義経:第3回

2022年8月12日
小冊子「梅唇尼」から

 米沢市の常信庵(じょうしんあん)が1914年(大正3年)に発行した「梅唇尼(ばいしんに)」という小冊子がある。編者は明治38~45年に米沢市長を務めた二村忠誠氏で、米沢の義経伝説が集大成されている。今回はこの内容を紹介しよう。

 梅唇尼は上州(群馬県)の豪族の出で、京都で朝廷の大臣の北の方(正妻)に仕えた。北の方の母は義経の生母である常盤御前(ときわごぜん)で、義経の父義朝を討った平清盛が常盤に産ませた子だった。北の方は義経の異父妹だったわけで、これを知った梅唇尼は僧になるため鞍馬山に預けられていた義経に深く同情するようになった。
 その後、梅唇尼は奥州の佐藤庄司に嫁ぎ米沢に住んだ。一方、義経は数え16歳の時に鞍馬を脱出して奥州平泉に向かう。その途中、米沢の佐藤家に立ち寄った。梅唇尼は義経を大いに歓待し、子どもの継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)を義経の臣下として従わせた。

「判官びいき」の系譜/源 義経:第3回

 兄・頼朝の挙兵に呼応して義経主従は平家討伐に向かうが、継信は屋島の戦いで義経の身代わりとなって討ち死にする。
 平家滅亡後、頼朝は京都堀川の館にいた義経を刺客に襲わせた(堀川夜討ち)。この時に忠信は兄同様、義経の身代わりとなり落命する。※一般には忠信の死はこの時より後のこととされている。
 その後、平泉に落ち延びていく義経・弁慶たちが山伏に身をやつし、会津を経由して米沢を通ると聞いた佐藤一族は、接待所を沿道に設けて義経らが来るのを待った。
 通りがかった山伏集団は果たして義経一行であった。佐藤一族の人びとと再会し涙を流した。すでに出家していた梅唇尼は継信の遺児の鶴若を義経に引き合わせた。 
 弁慶が継信・忠信兄弟の討ち死にの模様を詳しく語ると、兄弟の妻たちは悲しみの涙に暮れたが、梅唇尼は涙を見せずむしろ笑みを浮かべつつ「兄弟が私の教えを守って義経に忠義を尽くしたのはせめてもの慰め」と話すと義経は感涙にむせんだ。山伏一行は数日の滞在の後、平泉を目指して北上していった。

 弁慶は私の故郷である紀州(和歌山県)出身とされ、一般には怪力・乱暴者のイメージがあるが、米沢では弁舌さわやかな人物として伝わっているようだ。ありがたいことである。


山本  陽史