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~最上三代~その栄光と蹉跌/家親の出羽三山政策

2019年3月8日
 最上家2代目の家親は政敵の清水光氏を葬り去り、山形藩藩主としての地位を固めていく。

 一方、江戸幕府は大坂の陣によって豊臣秀頼を滅ぼして後顧の憂いをなくし、その地盤を強固なものにしていった。家親は長く将軍・秀忠の近習を務めてただけに、家親の権力基盤が固まるにつれて幕府の意向が山形藩政に強く反映するようになっていく。
 その一例が出羽三山の天台宗化である。

~最上三代~その栄光と蹉跌/家親の出羽三山政策

 江戸幕府の宗教政策といえばキリスト教の禁止(キリシタン弾圧)が有名である。その政策は寛永14年(1637年)から15年にかけての「島原の乱」を誘発するが、キリシタン弾圧は逆に言えば仏教重視政策だった。
 戦国時代において、信長は一向一揆に手を焼いたことから仏教(浄土真宗)を苛烈に攻め立てたが、秀吉や家康は弾圧するキリシタンの対抗軸として仏教諸宗には親和的な政策をとった。

 とりわけ江戸幕府が重要視し、保護を与えたのは、上野寛永寺に代表される天台宗と、芝増上寺に代表される浄土宗の2宗であった。
 天台宗を優遇したのは、家康の側近として幕府の朝廷政策・宗教政策に深く関与した天台宗の僧・南海坊天海に配慮したためと思われる。
 浄土宗は、徳川家の三河以来の菩提寺の宗派だったからと考えられる。

 月山、羽黒山、湯殿山の総称である出羽三山は、縁年(えんねん)の丑年(うしどし)には3万人もの参拝者を集めたと言われ、家親は江戸からも多くの参拝客を集める出羽三山の整備にも気を配った。
 江戸時代以前、出羽三山は真言宗であったが、幕府の庇護を受けるため月山と羽黒山は天台宗に改宗した。当時の羽黒山の別当・宥源(ゆうげん)は湯殿山にも改宗を迫るが、湯殿山はこれを拒否し、出羽三山のうち湯殿山だけが真言宗として明治を迎える。

 宥源は江戸期における羽黒山の中興者として、特に参道整備などに尽力したことで知られる。こうした宥源の活動は、江戸幕府と密接な関係を保っていた家親との連携作業であったろう。


~最上三代~その栄光と蹉跌/家親の出羽三山政策
松尾 剛次 

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。