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~最上三代~その栄光と蹉跌/家親、幸先のいい船出

2019年2月22日
 家親の襲封(しゅうほう)後、半年もたたない慶長19年(1614年)6月1日、鶴岡城下で「一栗兵(ひとつくりひょう)部の乱」が起こった。

 酒田城主・志村光惟(あきただ)らが殺害された事件で、2万7千石と山形藩内屈指の大名だった清水光氏を藩主にしようと画策した乱であった。この事件により家親は光氏討伐を決意し、その口実を探すようになる。

~最上三代~その栄光と蹉跌/家親、幸先のいい船出

 光氏は家親にとっては異母弟だったが、清水氏の養子に入り天正14年(1586年)以来、清水城主として勢威を振るっていた。慶長出羽合戦では義康とともに大いに活躍し、家親の対抗馬とされていた。
 若いころは豊臣秀頼の近習を務めていたこともあり、最上家の中では豊臣方と目されていた。
 また清水は最上川水運の河岸(湊(みなと))として大いに栄え、光氏の重要な経済基盤になっていたが、大石田河岸を整備しようとしていた家親とはその面でも対立していた。

 「奥羽永慶軍記」によれば、家親は近習の山田勝蔵をスパイとして清水に派遣して城中の様子を探らせ、秀頼方から来た謀反への加担要請の手紙を盗み出させたという。
 家親はその手紙を持って江戸へ登った。これが秀頼の江戸幕府への謀反の決定的証拠として大坂の陣が始まることになったのである。
家親は、野辺沢駿河守光昌、日野将監(しょうげん)に命じて光氏を攻めさせた。「新庄古老覚書」という地元の記録では、野辺沢ら討ち手が近づくと光氏の家臣がいっせいに寝返ったため清水城はあっけなく陥落し、逃げた光氏も殺されたという。慶長19年10月13日のことであった。

 光氏討伐は、政敵の存在を葬り去っただけではなく、大坂城に蟠踞(ばんきょ)する豊臣秀頼を滅亡させるという江戸幕府の大義にもかない、徳川への忠義を示す一石二鳥の効果があった。
 それゆえ「私戦」を起こしたとして処罰されることもなく、その報償として大坂の陣における江戸留守居役を命じられた。
 このように、襲封間もない家親は江戸幕府の信任を受けて幸先のいいスタートを切ったといえるだろう。


~最上三代~その栄光と蹉跌/家親、幸先のいい船出
松尾 剛次 

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。