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~最上三代~その栄光と蹉跌/一栗兵部高春の反乱

2019年1月25日
 最上義光が慶長19年(1614年)1月18日に死去した後、最上家の二代目当主となったのは三男の家親だった。家親は徳川秀忠の近習として江戸暮らしが長く、家親が襲封(しゅうほう)したのは徳川家康の意向が大いに反映したものであろう。

 だが、それがために長男の義康という本来の継承者の横死(おうし)を招き、最上家臣団内には極めて大きな亀裂が生まれてしまう。山形に根がなかった家親にはその修復ができず、家臣団をまとめる力がなかった。とりわけ家親の異母兄弟で、歳も同じであった清水光氏は家親に不満を持つ家臣団の対抗馬と目された。

~最上三代~その栄光と蹉跌/一栗兵部高春の反乱

 家親が後を継いで半年もたたないうちに、家臣団の亀裂を示す事件が起こった。一栗兵部高春の反乱である。
 一栗兵部は、もと陸奥玉造郡一栗領主で、大崎氏の家臣であった。大崎家滅亡後に義光に仕えることになった人物で、庄内平定以後は田川郡添川領主として一千石を与えられ、鶴岡城の足軽大将でもあった。
一栗は、家親に恩賞などで不満があり、清水光氏を藩主とすべきと考えて酒田城主の志村九郎兵衛光惟と謀った。志村光惟は長谷堂城主であった志村光安の嫡男である。志村は断れば殺されると思い、いったんは同意の意を示して、一栗に味方するという起請文(誓文)を交わした。

 ところが、慶長19年6月1日、藤島城主にして鶴岡城代であった新関因幡守久正が酒宴を催し、志村光惟と大山城主の下秀久が招かれたが、一栗は招かれなかった。
 一栗は志村を通じて謀反の計画が露見したと考えて、手兵を率いて新関邸に向かう途中の志村と下らを襲って殺害した。

 結局は一栗一派も新関らによって殺害され、ひとまずこの乱は終わったが、おそらく、志村は庄内の有力者の新関、下らと相談して、一栗の謀反の計画に対処しようとしたのであろう。それが、逆に一栗に気付かれ、先手を打たれたと思われる。
 この乱は一栗の単独犯行ではなく、清水光氏ら反家親派と連携した動きが表面化したものと推測される。


~最上三代~その栄光と蹉跌/一栗兵部高春の反乱
松尾 剛次 

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。