徹底して山形に密着したフリーペーパー

歌手 青山 ひかるさん

2019年1月11日
本名・三浦弘也(みうら・こうや) 1979年(昭和54年)山辺町生まれ。山本学園高卒業後、97年日本クラウン「35周年記念ニューアーティストオーディション」に合格。翌98年に19歳で単身上京、アルバイトをしながら作曲家の新井利昌氏のもとでレッスンに励み、2006年「東京ロスト・ラブ」でデビュー。同年の「日本の歌フェスティバル」新人奨励賞、翌07年の日本クラウン新人ヒット賞を受賞。これまでに8曲を発売、最新作は15年の「かみのやま慕情」。今月21日で40歳に。
歌手 青山 ひかるさん

ヒット曲を出して露出を増やし
  地元・山形を全国に発信したい

――可愛い顔して間もなく「不惑」ですか。
 「確かに30代前半までと違い、あんまり迷わなくなましたね(笑)」
――人生を振り返ると。

母親の影響で演歌に

 「実家は板金屋です。弟がいますが、遊び相手は近所の女の子。お人形さんやママゴトが好きで、着せ替え人形のようにスカートをはかされて帰宅したことも(笑)」
 「歌は大好きで、特に母親の影響で演歌が。高校に入ると、周りでは安室奈美恵さん、グローブ、ミスチルなんかが人気でしたが、私はカラオケでも美空ひばりさんやちあきなおみさんの曲を熱唱してましたね」
 「祖母ががんと闘っていた高2の時、母が『弘也がテレビさ出たら婆ちゃん喜ぶべな~』というのでNHK勝ち抜き歌謡選手権に応募したら、予選を通過して優勝!」
 「もともとは引っ込み思案なのに、それ以来、県内のいろんな大会やコンクールに出場するようになって賞金や賞品を荒稼ぎしてました(笑)」
――それから単身上京するんですね。
 
上京後は苦労の連続

 「歌手になりたい一心で。でもそれからが大変。師事した新井利昌先生が厳しい方で、二言目には『山形に戻って板金屋を継げ!』。毎日泣いてましたが、いま振り返れば、あの苦しい時代があったから今があると。実家は弟が継ぎました」
 「歌手デビューするまでに7年半もかかりました。その間、アルバイトとレッスンのかけもちで、歌手になるのを諦めかけたことも何度か。やっと出せたデビュー曲も思っていた路線ではなく、ムード歌謡でした」
 「でも、自分が詳しくなかったジャンルだっただけに逆に歌の幅が広がり、引き出しが増えたというか。今はシャンソンやカンツォーネまで、けっこう何でも(笑)」 

営業で全国行脚

――営業で全国をまわらなきゃなんでしょ?
 「それはデビュー時も今も基本。各地のレコード店やスナックをまわったり、お祭りやイベントに呼ばれたり」
――最近は東京で活躍してる県内出身の歌手も多いけど、その先駆けだもんね。
 「林部智史さん、工藤あやのちゃん、朝倉さやちゃん、絢音(あやね)ちゃん…。東京や地方で『山形出身の歌手、増えたわね~』とよく言われます」

露出を増やしたい

――今後の抱負とか。
 「やっぱりヒット曲を出してメディアに多く取り上げてもらいたいです。それがファンへの恩返しにもなりますから」
 「山形には月1回は来てます。元旦は母校の山辺中の同窓会で歌わせていただきました(笑)」