徹底して山形に密着したフリーペーパー

~最上三代~その栄光と蹉跌/最上屏風を巡って

2019年1月11日
 山形市鉄砲町にある最上義光の菩提寺・光禅寺に「最上屏風」と呼ばれる屏風が伝わっていることは地元では意外に知られていない。

 最上屏風の原本は明治27年(1894年)の市南大火で焼失したが、模写図が光禅寺のほか大阪城天守閣、徳川美術館、東大史料編纂所など7カ所に残されているのだ。
 かつては、五輪塔の旗指物(はたさしもの)などが描かれていることから最上屏風は義光の奮戦を描いたものとする説もあったが、現在では大坂夏の陣の様子を描いたものという説が有力になっている。

~最上三代~その栄光と蹉跌/最上屏風を巡って

 以前、義光の後を継いだ家親が豊臣秀頼の謀反の証拠となる清水光氏宛の手紙を徳川秀忠に差し出し、それを根拠に大坂の陣が始まったことを紹介したが、元山形大学教授で、日本美術史研究の大家である宮島新一氏の研究によれば、最上屏風は家親が大坂の陣に際して戦地に派遣した家臣の奮闘振りを描いたものという。
 大坂の陣の間、家親は江戸城留守居として江戸城に止まったが、家臣の武久庄兵衛と富田加兵衛の2人を冬と夏の両陣に遣わした。2人は後に領地の加増を受けている。
 宮島氏は、2人のうち武久が主君・家親への土産のために自分の奮戦を屏風に描かせ、それを家親へ贈ったという仮説を述べている。
 宮島氏はまた、家親がその見返りとして、平安時代末期の絵巻物で最上家の家宝であった「伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)」(現在は国宝)を武久に与えたという大胆な説を展開、真偽のほどは後の研究課題としているが、家親がそれほどまでに最上屏風を貴重なものと考えていたのかもしれない。  

 原本が消失し、模写図しか残っていないために、仮説の当否を論じることができないのは残念だが、「最上屏風」の存在は家親と大坂の陣との密接な関係を示す重要な遺物であったと考えられる。
 家親が命じられた留守居役の意義は軽視されがちだが、外様大名が安全な江戸城にいて大坂の陣の高みの見物ができたという点からも、江戸幕府の家親への信頼度の大きさがうかがえる。


~最上三代~その栄光と蹉跌/最上屏風を巡って
松尾 剛次 

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。