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~最上三代~その栄光と蹉跌/清水光氏とは?

2018年11月23日
 前回、義光の後を継いで最上氏の当主となった家親の最初の仕事が、大坂の陣の口火をきったことだったことを述べた。

 異母兄弟の清水光氏(あきうじ)に宛てた大坂方の密書を間者(スパイ)に盗み出させ、それを徳川秀忠らに届けたことで大坂の陣が始まったからだ。
  それでは、なぜ家親は、同い年の光氏を裏切ったのだろうか、光氏はどんな人物で、家親が殺さねばならなかったのはなぜなのだろうか。

~最上三代~その栄光と蹉跌/清水光氏とは?

 清水氏は最上氏の庶流・成沢氏の流れである。清水(現、大蔵村)は最上川舟運の河港として大いに栄え、最上氏の最上・庄内攻略の拠点であった。第6代当主清水義氏は天正14年(1586年)年に死去するが、女子しかなく、義光の子の光氏を養子に迎えたと考えられている。
 慶長6年(1601年)閏11月、光氏は志村光安とともに庄内を受け取りに向かっている。義光時代の家臣団の書き上げと言える「最上義光分限帳」によれば、光氏は2万7300石も与えられた有力大名であった。それゆえ江戸暮らしが長く、山形に味方の少ない家親にとって、煙たい存在であったはずだ。

 慶長16年から17年にかけ、光氏は清水領内で、家臣や寺社に土地給付などを行っており、その当時は清水領主として活動していたと思われる。
 とりわけ注目されるのは、その花押の類似性や文書内容から、発給者は光氏と考えられる文書の花押に「康氏」と署名がある文書が存在することだ。
 また寺社に出した文書には最上義康と読める印判を使用するなど、光氏は横死した義光の長男、つまり家親の兄の義康との関係が深かったように受け取れる。

 想像をたくましくすれば、光氏は、「康」の一字を拝領したほどの義康派であったのかもしれない。そうであれば、義康の死後、徳川家康の強力な推薦(命令?)によって山形藩主第2代の座についた家親にとっては大いに邪魔な存在であったはずである。
 それゆえ、家親は光氏を打倒する機会を狙っていたのであろうか。


~最上三代~その栄光と蹉跌/清水光氏とは?
松尾 剛次

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。