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~最上三代~その栄光と蹉跌/家親、中世史にも影響?

2018年10月26日
 最上家親は、兄の義康が慶長8年(1603年)に横死したため山形藩57万石の跡継ぎ候補となるが、同18年(1613年)においても家親に与えられていた役割は徳川秀忠の近習役で、主な活動拠点は江戸だった。
 だが同19年に父の義光が亡くなると、山形藩第2代藩主として活動の場は山形に移ることになる。
~最上三代~その栄光と蹉跌/家親、中世史にも影響?

 山形藩主として家親が行なった最初の活動が、弟の清水光氏の討伐である。これまで家親による清水討伐は最上家内部のお家騒動ぐらいの位置づけで、極めて軽く扱われてきたが、実は日本の中世史に影響を与えた重要な事件であった。 
 というのも、この清水討伐は後世に名高い「大坂の陣」の口火をきった事件とみなすことができるからだ。

 関ヶ原の戦いで徳川家康が天下の実権を握った後も、大坂に蟠踞(ばんきょ)する豊臣秀頼らは徳川幕府の下風に立つことを潔しとしなかった。
 そんな大坂方に仕掛けた幕府の最後の戦いが大坂の陣である。
 幕府側は同19年10月に大坂城を取り囲んだが、難攻不落とうたわれた同城に籠(こ)もる大坂方の抵抗にあい、12月にいったんは講和が成立した(大坂冬の陣)。
 年が明けた同20年4月に再度戦端が開かれ、5月8日に秀頼と母淀君の自殺によって戦いは幕を下ろした(大坂夏の陣)。

 従来、家親や最上家と大坂の陣との関わりについては、幕府の命で「江戸城留守居役」を勤めたという事実の指摘に終始している。この留守居役であったこと自体、外様大名では異例というべき厚遇である。家親や最上家に対する幕府の信頼の大きさが読み取れる。

 ここで注目したいのは家親のもうひとつ別の役割である。元禄11年(1698年)に編纂された「奥羽永慶記」によれば、家親が近習の山崎勝蔵を間者(スパイ)として清水光氏のもとに派遣し、大坂方に協力するよう秀頼から送られた手紙を盗み出させ、それが秀忠に届けられたことによって大坂討伐が決定したということになっている。 


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松尾 剛次

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。