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~最上三代~その栄光と蹉跌/「最上記追加」を巡って

2018年10月12日
 最上家親は15歳の時に江戸に出て、徳川家康の嗣子・秀忠に出仕するようになって以降、故郷・山形の仕置きは父の義光と兄の義康にまかせ、庶子として江戸暮らしを楽しんでいたようだ。
 琉球国王の中山王が江戸を訪れた慶長15年(1610年)には、奏者(取り次ぎ役)を務めるなど山形を往復する暮らしだったのだろう。 
~最上三代~その栄光と蹉跌/「最上記追加」を巡って

 家親が「寒河江殿」、すなわち寒河江の支配者として史料に初登場するのは慶長7年(1602年)4月のことである。
 史料では家親が寒河江の武士・菅井左右衛門に土地の所有を安堵(保証)していることが記されており、家親が同年には寒河江地域の支配を任されていたと考えられる。
 また家親は同年11月28日付けで某武士に月布(西村山郡大江町)内の土地を授けている。つまり、家親は慶長7年4月以来、寒河江殿として寒河江一帯を支配していたのであろう。

 このことは最上家3代の変遷をたどるうえで極めて重要である。
 というのも、家親以前は兄の義康が寒河江の領主だったからだ。義光は義康を寒河江領主に任じ、帝王学を学ばそうとしていた。家親が寒河江殿になったとすれば、兄の義康が山形城主となった結果ではないかと推測される。
 実際、「最上記追加」には、義光が慶長7年7月以前に家督を義康に譲っていることが記されている。

 だが義光は家督をいったんは義康に譲ったものの、同年7月14日に義光と義康との間で「出入(争い)」があり、家臣団が二分されたとされる。
 義光は江戸にいたので時の将軍・家康に相談した。家康は親の言うことを聞かないのは不孝者であり、家督を家親に譲るように命じたという。
 そこで、義光は義康を家督の座から降ろして高野山に流し、家親を家督にしたというのである。

 この「最上記追加」の記述は裏付けを取るのは難しい。だが、家親が慶長7年4月に寒河江の領主となったとすれば、義康がそのころに家督を継いでいたことになり、「最上記追加」の記事の傍証になると考えられる。


~最上三代~その栄光と蹉跌/「最上記追加」を巡って
松尾 剛次

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。