徹底して山形に密着したフリーペーパー

~最上三代~その栄光と蹉跌/家親の足跡をたどる

2018年9月28日
 最上家親が最初に史料に登場するのは文禄4年(1595年)8月13日付けの「最上義康・家親連署祈願状」である。

 文禄4年といえば、豊臣秀次謀反事件に連座して秀次の側室の1人だった義光の娘・駒姫が斬首された年。京都の三条河原で刑が執行されたのは8月2日だった。
 祈願状は義光の長男・義康と三男(次男説もある)・家親が現在の朝日町にある大沼大行院に父の身の安全を祈願した文書で、したためた発端が秀次事件にあることは容易に想像がつく。
 秀次謀反事件は駒姫の横死にとどまらず、義光までも謀反に加担していたのではないかと疑われて謹慎を命じられている。祈願状からは義光の身に降りかかった危険度がひしひしと伝わってくるようだ。

~最上三代~その栄光と蹉跌/家親の足跡をたどる

 祈願状が天に通じたのか、義光の謹慎処分はほどなく解かれる。実際には徳川家康の取りなしが奏功したと思われるが、迷信深い当時の人々はそう考えたであろう。
 ただ、祈願状に据えられた義康と家親の花押(サイン)は2人の他の花押と全く似ておらず、後世の写しであろう。それゆえ偽文書との指摘もあるが、祈願状が出された可能性は高い。当時14歳だった家親は、山形の地で兄の義康とともに父の身を案じていたのである。

 江戸時代初期の家譜「寛永諸家譜最上氏」によれば、家親は慶長元年(1596年)から江戸に出て家康の後継者だった秀忠に仕えたという。時に15歳であった。以後、家親は後に徳川幕府二代将軍となる秀忠の近習として活動していくことになる。

 では、北の関ヶ原とも呼ばれる慶長出羽合戦に際して家親は何をしていたのであろうか。  慶長5年(1600年)の上杉景勝征伐の時は秀忠に供奉して宇都宮まで行き、そこから秀忠が中山道を通って信濃上田城の真田攻めを行った際にも従軍した。
 上田城攻めで秀忠軍は真田昌幸・幸村父子の巧みな用兵に翻弄され、肝心の関ヶ原に間に合わなかったことで知られる。家親は長谷堂城合戦にも参加していない。


~最上三代~その栄光と蹉跌/家親の足跡をたどる
松尾 剛次

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。