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~最上三代~その栄光と蹉跌/非業の死を遂げる義康

2018年8月10日
 義光の嫡男・義康の死を巡っては、義光の伝記物語「最上記」が詳しい。

 それによれば、義光は慶長5年(1600年)9月の慶長出羽合戦に勝利し、徳川家康から57万石の大大名に封じられたが、家督をなかなか義康に譲ろうとしなかった。
 義康も独自の近臣集団を形成していき、義光の近臣と義康の近臣との間で対立も生まれるようになった。義康近臣たちの間では、義光が家督を譲らないのは、家康の覚えがめでたい次男の家親に譲るつもりだからだとささやかれていた。

~最上三代~その栄光と蹉跌/非業の死を遂げる義康

 そんなある日、義康が光明寺(現在の山形美術館と最上義光歴史館一帯)で近臣らと酒宴を張った際、誤って脇差しで自分の左脇を少し突いて怪我をするという小事件があった。それが義光の近臣たちに間違って伝わり、義康が家督を譲らない義光を恨んで自殺を図ったと流布された。
 義光が江戸に上って家康に相談したところ、義康の行動を不快に思った家康は「家督を家親に譲れ」と指示した。

 そこで義光は家親を後継者とし、義康を高野山に追放したが、高野山へ向かう途中、義康は鶴岡で義光の近臣らの襲撃を受け、鉄砲に撃たれて非業の死を遂げる。致命傷はへそ下から貫通した2発の銃弾。時に慶長8年8月16日のことだった。義康同行の近臣10数名も全員殺害されたという。

 以上が「最上記」の伝える義康横死事件だが、近年では「最上記」の記述を批判した「最上記追加」が注目されている。
  それによれば、慶長7年7月以前、義光はいったんは義康に家督を譲っていたが、7月14日に両者間で争いがあり、家康に相談のうえで家親に家督を譲ることにした。
 その後、まず義康を高野山に配流したが、大坂に近いというので山形へ戻したうえで鶴岡で殺害したという。
 この説は他の史料とも符合する点が多く、大いに検討に値する。義康横死の背景に、豊臣秀頼近習だった義康と、徳川秀忠の近習だった家親の対立があり、そこにも家康の天下とりの影響が見て取れる。


~最上三代~その栄光と蹉跌/非業の死を遂げる義康
松尾 剛次

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。