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~最上三代~その栄光と蹉跌/義光と義康、父子の亀裂

2018年7月27日
 ある時期まで義康は順当に義光の後継者の道を歩んでいた。それがなぜ高野山への蟄居(ちっきょ)を命じられ、結局は殺されたのか。また弟の家親が後継者になったのはなぜか。

 結論から言えば、義康の運命を暗転させたのは徳川家康の天下統一だった。家康の命、あるいは家康への〝忖度〟で義光は義康を廃嫡(はいちゃく)し、家督を家親に継がせたのだ。

~最上三代~その栄光と蹉跌/義光と義康、父子の亀裂

 義康は豊臣秀吉の子・秀頼の近習だったと考えられている。実際、慶長2年(1597年)正月に義康は連歌を詠んでおり、その注記に「義康は秀頼の近習」と記されている。ただ、その注記はオリジナルを確かめることができないので確実ではないのだが…。

 義光は天下人たる豊臣家との関係を重視せざるを得ず、自身も天正19年(1591年)正月から本姓を「豊臣」に変え、「羽柴義光」と名乗っている。
 義康も慶長2年には「従五位下・修理大夫」に叙任(じょにん)され、「豊臣義康」「羽柴義康」と名乗ることを許されている。
 義光・義康父子は豊臣家の〝藩屏(はんぺい)〟とみなされていたといえよう。

 ところが、慶長3年(1598年)に秀吉が没し、家康が天下人として振る舞いだすと、 秀吉という強力な後ろ盾を失った秀頼との関係が深いとみなされる義康の立場は危ういものになる。一方で父の義光は愛娘を失った「駒姫横死事件」以来、家康とは誼(よしみ)を通じ、豊臣政権とは面従腹背の関係にあった。

 父子の亀裂が芽生えたと思われるが、奥羽の関ヶ原合戦といわれる長谷堂城合戦や、その後の庄内攻略戦を通じての活躍で義光も義康を後継者として認めざるを得なかったようだ。
 長谷堂合戦で義康は伊達政宗に援軍を求める使者となり、庄内へは最上軍の総大将を勤めたからである。最上家臣団の中にも義康派が形成されていった。

 「最上記追加(さいじょうきついか)」には慶長7年(1602年)7月、義光がいったんは義康に家督を譲ったという説が記されている。ただ2人の間で争論があり、家康の指示もあって撤回したというのである。
 次回はそのあたりの事情をみてみよう。


~最上三代~その栄光と蹉跌/義光と義康、父子の亀裂
松尾 剛次

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。