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~最上三代~その栄光と蹉跌/後継者と思われた義康

2018年7月13日
 豊臣秀吉が天正18年(1590年)7月に後北条氏を倒して天下を掌握したのに伴い、最上義光と伊達政宗はそろって妻子を人質として京都へ上らせた。同年8月のことであった。 
 最上氏の人質として上洛したのは嫡子・義康だったと考えられる。

 義康は豊臣秀頼の近習(きんじゅう)になったと考えられているが、この上洛が義康と秀頼を結びつける契機だったようだ。  義光が朝鮮出兵の準備のため、肥前(佐賀県)名護屋城に赴いた文禄元年(1592年)、義康は山形へ戻っていた。
 というのも、義光が山形城の管理を任せていた家臣の蔵増大膳亮(くらぞう だいぜんのすけ)に宛てた同年の書状では〝惣領(そうりょう)〟に言葉を掛けるように命じており、その惣領とは義康のことと考えられている。
 このように当時は義康が義光の惣領(後継者)と位置づけられていたことは確実である。

~最上三代~その栄光と蹉跌/後継者と思われた義康

 義康の立場は文禄4年(1595年)の「駒姫横死事件」に関連しても伺える。豊臣秀次謀反事件に連座し、義光の娘で、秀次の側室だった駒姫が三条河原で斬首された。
 この事件により義光も謀反の嫌疑がかけられ、極めて危険な状態に置かれた。義康は弟の家親(いえちか)とともに同年8月13日付けで大沼明神(朝日町)に願文(がんもん)を奉呈(ほうてい)、義光の身の安全を祈願している。

 義康には子どもがいたのだろうか。近年紹介された愛知県南知多町の円増寺所蔵「紺紙金字法華経(こんしきんじほけきょう)」8巻は、建長4年(1252年)銘の奥書(おくがき)がある装飾経(そうしょくきょう)である。
 その本紙に続いて継がれた紙には、文禄5年(1596年)1月3日付けで、山形孫三郎(義康)とその子とみられる千宝子丸(せんぼうしまる)の長寿を祈願する法印・尊海(そんかい)の願文が記されている。
 尊海は山形宝幢寺(ほうどうじ)の僧であり、それらの法華経は文禄5年には山形に所在したものが散逸して円増寺の所蔵となったのであろう。義康の子どもの存在がわかる貴重な資料といえる。

 宝幢寺は最上家ゆかりの祈願寺で、尊海は義光と仲が良かったことを思えば、義康が順調に家督継承の道を歩んでいたと考えられる。


~最上三代~その栄光と蹉跌/後継者と思われた義康
松尾 剛次

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。