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~最上三代~その栄光と蹉跌/浮上する後継者問題

2018年6月22日
 北の関ヶ原と呼ばれ、慶長5年(1600年)9月15日に始まった長谷堂城合戦に勝利した義光は、20万石の大名から57万石の大大名へと大躍進を遂げる。それに伴い、広大になった領国を誰に譲るかという後継者問題が浮上してきた。

 長谷堂城合戦で頭を鉄砲で撃たれ、兜のおかげで命びろいした義光は大いに「死」を意識していたはずである。義光は時に55歳。後継者を誰にするかは焦眉(しょうび)の急だった。

~最上三代~その栄光と蹉跌/浮上する後継者問題

 順当にいけば、嫡男の義康であった。ところが義光は3男の家親を選んだうえに、義康に高野山への追放を命じた。義光は義康を殺す気はなかったが、結局、殺害されてしまった。
 この義光の選択は、結果論的には最悪の事態を招く。家臣団に収拾のつかない亀裂を生み、最上家改易への道を開くことになった。そこに至るまでの経緯を少し詳しく触れてみよう。 

 義康は、天正3年(1575年)、天童頼貞の娘を母として生まれた。正妻の大崎殿の子ではなかったが、大崎殿には男子がいなかったようで、嫡子となったのである。
 義康が史料に登場するのは天正14年(1586年)年。義光が義康とともに連署して、山寺立石寺へ燈油料田を寄附している。その署名は高擶(たかたま)小僧丸となっている。

 母の実家である天童氏は清和源氏新田氏の流れをくみ、山形の北を押さえる雄族だった。最上氏とは南北朝期に姻戚関係を結ぶなど深いつながりがあり、義光が頼貞の娘を嫁に迎えたのも自然な流れだったといえる。
 だが天正12年(1584年)、義光は頼貞の子で妻の弟にあたる頼澄を攻め、天童氏は陸奥国へ逃げた。義光は天童氏の旧領をも支配下においた。義光・義康父子が山形の鬼門(北東)に位置する立石寺を保護したのも、天童氏を追放し、新たな支配者となったからであった。

 義康が高擶小僧丸と名乗っているのも、高擶(天童市)辺を住居とし、母ゆかりの天童領を任されたためかもしれない。
 長谷堂城合戦の時、義康は26歳であった。


~最上三代~その栄光と蹉跌/浮上する後継者問題
松尾 剛次

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。