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~最上三代~その栄光と蹉跌/黄金色に輝く山形城

2018年5月11日
 昨年の山形城址の発掘により、金箔(きんぱく)の施された鬼瓦が多数見つかった。すでに金箔(おにがわら)の施された軒丸瓦(のきまるがわら)は発見されていたが、昨年の発掘で最上義光時代の山形城は黄金色に輝いていたことが証明されたのである。

 豊臣秀吉がつくった大坂城や聚楽第(じゅらくだい)は黄金色だったことはよく知られているが、豊臣大名の一人であった義光の居城もそうだったのだ。では山形城の整備はいつごろなされたのだろうか。

~最上三代~その栄光と蹉跌/黄金色に輝く山形城

 その時期は文禄元年(1592年)から始まったと考えられる。その根拠は次に示す蔵増大膳亮(くらぞう だいぜんのすけ)宛ての同年3月28日付けの義光の書状である。
 「(前略)三月十七日京都を出発し、同二八日に堺港より海を渡って朝鮮の御陣へ出発した。肥前名護屋と申す所までということだ。(中略)また、そこもとの普請以下、火の用心等、任せる。細々(山形城)へ出仕して、惣領殿(義康)へ詞を懸ける事のぞむところである。(後略)」

 蔵増は最上義光の有力家臣で、当時は山形城にいた。この書状は秀吉の朝鮮出兵、つまり文禄の役(1592~93年)に関わる史料でもある。
 この書状をしたためた時、義光は500人の家臣を率いて肥前名護屋(佐賀県)に滞在し、朝鮮への渡海を待っていた。名護屋城は朝鮮出兵の前進基地であり、伊達政宗も1000人の家臣を率いて在陣し、屋敷跡も確認されている。

 「そこもとの普請以下~任せる」という文言は、蔵増に山形城の普請を任せたものと解釈されている。山形城は文禄元年に本格的な整備が始まったのであろう。山形城も豊臣秀吉の黄金趣味(成り金趣味と言うべきか)を受けた城郭であった。

 なお、名護屋在陣中の義光は、慣れぬ九州暮らしにほとほと嫌気がさしていたようで、別の書状で「命があるうちに、いま一度最上の土を踏み、水を一杯飲みたいものだ」と記し、望郷の念を募らせている。
 かくいう肥前長崎出身の私自身も、山形に来たばかりのころは山形の水のおいしさに驚かされたものだ。400年前もそうであったと思うと何やら感慨深い。


~最上三代~その栄光と蹉跌/黄金色に輝く山形城
松尾 剛次

●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。