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~最上三代~その栄光と蹉跌/分限帳を読み解けば

2018年3月9日
 最上義光は57万石の大大名となり、数多くの家臣を抱えることとなった。この最上家臣団の実態を知るうえで、「分限帳(ぶげんちょう)」という史料がある。
 家臣の名前、何石を与えられているか、負担する役はどのようなものかなどを記したものだ。
~最上三代~その栄光と蹉跌/分限帳を読み解けば

 最上家関係の分限帳は義光の時代、慶長18年(1613年)ごろの分限帳や、義光の孫・家信時代の分限帳など10本が知られているが、ここでは義光時代の分限帳に注目しておこう。
 家臣名としては、4万5000石の大名と言える本城(楯岡)豊前守満茂から三人扶持(ふち)の塚原七蔵まで889例(寺社を含む)が挙がっている。また、旗本482騎、家中783騎、合わせて1265騎と記されている。長谷堂城合戦以後に増えた家中は462騎と記載されている。 

 石高に目を転じると、1万石を超える大名クラスが15名もいる点が特筆される。後に触れるが、お家騒動で家信が改易され、5000石の旗本クラスに減封されて近江に移ったことを思えば、その大きさがうかがえるだろう。
 最も石高が多いのは、先に述べた本城満茂で、次いで3万石の酒田城主・志村光安、2万7300石の清水大蔵(義光の三男)、2万7000石の大山光隆(義光の六男)、寒河江広俊、2万石の上山義直(義光の五男)と延沢光昌などが続く。最上家57万石のうち、15名の合計で31万2100石にもなる。  

  このことは、義光が家臣を大事にしていたことや、彼の気前の良さを示しているともいえる。ただ、62万石の伊達政宗の家臣のうち、1万石を超える武士が9名であったことから判断すれば、15名は多過ぎであろう。
  義光ならば、そうした家臣を統制できたにせよ、若すぎる家信では無理であった。
 
 義光没後、家信の継嗣問題で意見が割れ、最上家が改易になるか否かの瀬戸際の時ですら、山野辺義忠らは当主家信の意見に従わなかった。
 これも大名級の家臣として独自の家の子・郎党を有する強固な独立性が背景にあったと考えられる。


~最上三代~その栄光と蹉跌/分限帳を読み解けば
松尾 剛次
●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。