徹底して山形に密着したフリーペーパー

~最上三代~その栄光と蹉跌/義光、絶頂期を謳歌

2018年2月23日
 最上義光は奥羽の関ヶ原合戦に勝利した恩賞として、庄内地方のみならず秋田南部をも併せて57万石の大大名となった。伊達政宗が62万石だったことを思えば、その大きさが想像できよう。
 義光はまさに一世一代の賭けに勝ったのである。失敗すれば家臣団とともに、この世から消滅していたかもしれない。

 他方、上杉景勝と直江兼続主従はといえば、徳川家康の側近の本多正信らに家康への口利きを頼み、平身低頭して改易こそ免れたものの、120万石の大大名から30万石の小大名へ減封(げんぽう)の憂き目をみることになった。
 上杉謙信以来の努力が水泡に帰したと見ることもできよう。

~最上三代~その栄光と蹉跌/義光、絶頂期を謳歌

 慶長12年(1607年)正月、義光は天童において馬揃(うまぞろ)えの儀式を行おうと思い立った。馬揃えとは、いわゆる閲兵式と軍事パレードである。
 馬揃えといえば、織田信長が天正9年(1581年)2月に京都の内裏(だいり)東側で行ったものが有名である。  信長は、天下人としての威勢を正親町(おおぎまち)天皇を初めとする京都人に見せつけようとした。その壮観さはその場にいた観衆だけではなく、口づてに、ライバルだった他国の戦国大名たちにも伝えられたはずである。

 現代においても、お隣の北朝鮮の金正恩総書記が、戦車やミサイルなどを中心とする軍事パレードを行い、軍事力を誇示するのが度々ニュースになるが、馬揃えもそういう意味を持っていた。
 馬揃えを見て「我らの領主様はなんとすごい武力をお持ちのことか」と領民たちは納得した。今も昔も、政治(まつりごと)は祭事であって、民衆は軍事パレードなどに熱狂したのである。 
 おそらく義光も大大名となった己の力を誇示し、他の領主にも見せつけたかったのだろう。

 この馬揃えには庄内地方の武士を除く騎馬武者3727騎が召集されたとされるが、最終的には中止になった。
 幻に終わった馬揃えではあったが、まさに義光の人生の絶頂期を象徴する行事であった。同じく家康方として戦った政宗の加増がわずかだったのとは対照的であった。


~最上三代~その栄光と蹉跌/義光、絶頂期を謳歌
松尾 剛次
プロフィール
●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。