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~最上三代~その栄光と蹉跌/57万石の大大名に

2018年2月9日
 慶長6年(1601年)4月、最上義光(もがみ よしあき)の嫡男・義康(よしやす)の総指揮のもと、下吉忠(しも よしただ)、鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)らの奮戦によって志駄義秀(しだ よしひで)が籠もる酒田城を落とし、ここに義光による庄内攻略作戦は完了した。

 それに先立つ慶長5年9月15日以前、直江兼続(なおえ かねつぐ)が指揮する上杉勢の山形領侵攻で義光は苦境に陥った。上杉勢に呼応するかのように、横手城(秋田県横手市)に拠る小野寺義道(おのでら よしみち)が義光の家臣・楯岡満茂(たておか みつしげ)が守る湯沢城(秋田県湯沢市)を攻めたてたのである。

~最上三代~その栄光と蹉跌/57万石の大大名に

 義道は上杉氏を別とすれば、奥羽地域で豊臣方に味方した唯一の大名だった。義道が積極的に上杉氏に与力する意識があったとは考えがたいが、義光に奪われていた旧領を取り返したかったのは間違いない。
 天正19年(1591年)1月、小野寺領の3分の1にあたる湯沢・桝田(ますだ)(横手市)は豊臣政権の直轄地に組み込まれ、後に最上氏に預けられたからだ。その旧領を奪還するのが義道の目的だったと思われる。     

 だが義道は湯沢城を落とすことはできなかった。長谷堂合戦に勝利した義光は義道による湯沢城攻撃を徳川家康への反抗とみなし、10月には義道打倒の兵を出して横手城を包囲した。
 この闘いの決着はつかなかったが、徳川政権が成立すると小野寺氏は改易され、佐竹氏が秋田に入った。それを機に義光は秋田南部の由利郡一帯の支配を認められた。 
 羽州探題の継承者を自負していた義光は、庄内のみならず秋田南部の支配をも目指していた。ここに義光積年の願いが果たされたのである。

 義光が家康に提出した報告書によれば、奥羽の関ヶ原合戦で上杉方は3200名以上の配下を失うなど大損害を蒙ったことがわかる。
 他方、最上方は、畑谷城将江口光清(えぐち あききよ)・小吉(しょうきち)、侍頭加藤源右衛門(かとう げんえもん)ら多くの家臣を失ったが、その代償・褒美として、家康から庄内地域と由利郡を拝領したことになる。

 義光は57万石の大大名となった。徳川氏を除けば前田、結城、豊臣、伊達、蒲生、小早川の各氏に続く第7位の石高である。


~最上三代~その栄光と蹉跌/57万石の大大名に
松尾 剛次
プロフィール
●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。