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~最上三代~その栄光と蹉跌/念願の庄内を手中に

2018年1月26日
 関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600年)9月15日に東軍の徳川家康方の勝利で幕を閉じた。「北の関ヶ原」と言われた長谷堂城攻防戦も、10月1日に上杉軍の撤退でひとまず終わった。だが最上義光(もがみ よしあき)の戦いはそれで終わったわけではなかった。義光は直ちに兵を庄内に向けたのだった。

 義光が家康に味方し、不利な状況で上杉と戦ったのは、娘の駒姫を惨殺した豊臣政権への怒りがあったのは確かだろう。
 罪もない駒姫を斬首(ざんしゅ)したうえ、その首を畜生塚(ちくしょうづか)に埋めるという惨すぎる処置を行ない、果ては謀反の疑いをかけられたとあっては秀吉への忠義心は喪失していたはずだ。
 他方、家康は駒姫の命乞いなどに尽力してくれたこともあって、義光が家康派の大名になったことは理解できる。

~最上三代~その栄光と蹉跌/念願の庄内を手中に

 もっとも、そうした家康への忠誠心だけで上杉に戦いを挑んだわけではなく、庄内の領有問題の解決もあった。
 義光は天正16年(1588年)以降、その前年に得た庄内を失ったが、その地は上杉領となっていた。この庄内奪還という思いも上杉と戦う理由のひとつだった。

 義光はただちに庄内から攻め入り、逃げ遅れて白岩城(寒河江市)に駐留していた上杉方の酒田東禅寺城(酒田市)将・志駄義秀(しだ よしひで)隊と、谷地城(河北町)にいた尾浦城(鶴岡市)将・下吉忠(しも よしただ)隊の掃討戦を開始する。
 志駄には逃げられたが、下は義光に投降し、尾浦城攻めの先鋒として庄内に向かった。この庄内攻めの総大将を務めたのが義光の嫡男・義康(よしやす)であった。
 義康は下と息が合ったようで、緊密に連携しながら庄内攻めを成功に導いていった。尾浦城は下の部隊によりすぐに落ちたが、酒田城は降参を拒否した。時期は降雪期に入り、酒田城攻めの決戦は雪どけを待って持ち越すことになった。 
  
 戦端が切られたのは翌年の慶長6年3月。下は最上川を渡るための船を準備し、義康の兵の到来を待った。4月には川を渡って酒田城を攻め、志駄の部隊を打倒した。
 義光は、ようやく念願の庄内を手に入れたのである。

~最上三代~その栄光と蹉跌/念願の庄内を手中に
松尾 剛次
プロフィール
●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。