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~最上三代~その栄光と蹉跌/検証・長谷堂城の闘い(下)

2017年12月22日
 山形大学博物館には長谷堂城にあった門扉(もんぴ)が常設展示されている。従来は正門の門扉とされてきたが、近年の科学的な分析によっても、それが正門の門扉であるか否かは分明ではないが、いずれにせよ長谷堂城のどこかの門扉であるのだろう。
 その前に立ち、志村光安(しむら あきやす)、鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)らが兵を率いてくぐった様を思うと、長谷堂城攻防戦にかけた最上勢の熱き思いに胸が打たれる。
~最上三代~その栄光と蹉跌/検証・長谷堂城の闘い(下)

 長谷堂城攻防戦は慶長5年(1600年)9月15日に戦端が開かれ、10月1日の上杉軍の撤退までほぼ15日間に及んだ。関係資料を見ると、9月15日、24日、29日に上杉軍の総攻撃があったことが分かる。
   15日は志村らの城兵と鮭延らの援軍の連携作戦で、直江兼続(なおえ かねつぐ)率いる2万数千もの大軍を撃退している。敵味方入り乱れての混戦で、そのために長期戦となった。
 24日は伊達政宗(だて まさむね)の遣わした鉄砲120丁を含む援軍の力を借りたが、やはり激戦となり、両軍に多数の死傷者が出た。最上軍のシンボルといえる旗指物(はたさしもの)を奪われそうになったほどだ。旗指物を奪われるのは恥とされ、鮭延が奮戦してそれを死守したという。

 直江は24日の時点で米沢の守備隊が空っぽなので、二本松ほかの兵を米沢に送るように指示している。短期戦で終わるとの見込みがはずれ、長期戦を覚悟したのである。
 29日の戦いでは上杉方大将のひとりで、剣の達人である上泉主水(かみいずみ もんど)が雑兵に囲まれ、槍で突かれるなどして殺された。直江もさぞ狼狽(ろうばい)したことであろう。30日には関ヶ原合戦での家康勝利の報が伝わり、10月1日には撤退戦が始まった。

 この撤退戦では、直江自らが指揮し、鉄砲を駆使してうまく戦った。義光自身が鉄砲で撃たれ、織田信長から拝領した兜に玉が当たったという。
 最上義光歴史館には、その弾痕(だんこん)も生々しい兜が伝わっているが、それを見ると撤退戦の激しさが伝わってくる。

 長谷堂城攻防戦は終わりを告げたが、それは戦いの終わりではなかった。庄内攻略戦が開始されたのである。


~最上三代~その栄光と蹉跌/検証・長谷堂城の闘い(下)
松尾 剛次
プロフィール
●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。