徹底して山形に密着したフリーペーパー

~最上三代~その栄光と蹉跌/検証・長谷堂城の闘い(中)

2017年12月8日
 慶長5年(1600年)9月15日に始まった長谷堂城の戦いは、最上義光(もがみ よしあき)の人生における最大の危機であった。直江兼続(なおえ かねつぐ)を総大将とする2万5000もの上杉勢が、志村光安(しむら あきやす)らが守る長谷堂城を強襲したのだ。

 最上方には1万程度の兵力しかなく、まともに戦えば敗色濃厚であった。義光は兵力の分散を恐れ、兵を山形城、長谷堂城、上山城の3つに集中する作戦をとった。
  だが、畑谷城を守る江口清(えぐち あききよ)親子以下500は義光の命令を聞かずに籠城し、9月13日に直江軍の猛攻を受けて落城・自害してしまう。畑谷城を落とした直江勢は長谷堂城に迫り、長谷堂城の北の菅沢山に陣を敷いた。

~最上三代~その栄光と蹉跌/検証・長谷堂城の闘い(中)

 山形城から8キロほどしか離れていない長谷堂城に迫った上杉勢に対して、義光は2つの策を講じた。1つは甥(おい)である伊達政宗(だて まさむね)に援軍を要請すること、もう1つは、鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)を大将として援軍を派遣することだった。
 義光と政宗とは、小競り合いを繰り返すなど微妙な関係にあった。そこで義光は、政宗と仲が良かった嫡男(ちゃくなん)の義康(よしやす)を使者に立てて援軍を要請した。政宗の母である義姫も援軍要請の手紙を書いている。
 結局、政宗はその要請を受け入れ、留守政景(るす まさかげ)を大将として鉄炮隊と兵6000を派遣する。

 また、義光は戦巧者の鮭延に3000の兵を付けて長谷堂城へ送った。鮭延は長谷堂城付近を流れる本沢川を渡ったところに軍勢を隠しおき、少数の手兵を率いて長谷堂城にのり込んだ。
 志村と軍議し、志村らが鉄砲を撃ちながら上杉勢を攻め、掛かり合いになったところで、横から3000の兵が攻めかかるというものであった。
 15日、上杉勢は鮭延らの術中にはまり、500以上の死者を出す敗け軍となった。

 以後、戦場は膠着(こうちゃく)状態となった。上杉勢は9月24日と29日にも総攻撃をかけたが、到着した伊達の援軍の力も借りて義光方はそれらを撃退した。
 29日には関ヶ原での東軍勝利の報が入り、上杉勢は10月1日には退却を開始した。義光の戦略と家臣団の団結が勝利の最大要因であった。


~最上三代~その栄光と蹉跌/検証・長谷堂城の闘い(中)
松尾 剛次
プロフィール
●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。