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~最上三代~その栄光と蹉跌/義姫は“毒婦”だったか?

2017年9月8日
 ひと昔前、「戦後強くなったのはストッキングと女性」といわれたことがあったが、今から400年以上も昔の最上家にも後世にその名をとどめる“烈女”がいた。最上義光(もがみ よしあき)の妹・義姫(よしひめ)である。

 筆者の専門とする12世紀から16世紀における烈女といえば、一般には北条政子、日野富子らが挙げられようが、義姫も忘れてはならない存在だ。
 義姫は最上義光(よしあき)より2歳年下で、伊達政宗の実母だが、日本史上まれに見ぬ活躍をみせた女性といえるのではなかろうか。 

~最上三代~その栄光と蹉跌/義姫は“毒婦”だったか?

 これまで義姫が過小に評価されてきた最も大きな理由は、次男の小次郎を偏愛するあまり、長男の政宗を毒殺しようとしたと伝えられてきたことによる。つまり人倫にもとる行為をした“毒婦”と考えられてきたのだ。
 義姫は天正18年(1590年)4月5日、政宗を現在の福島県会津若松市にある黒川城に招いて毒殺しようとしたが失敗し、実家の山形城へ逃亡したとされる。これによって義姫は、いわば息子を殺そうとした鬼母とされてきたのである。

 この毒殺未遂事件は伊達藩の正史に書かれていることもあって、長らく史実として考えられてきたが、近年、伊達政宗の師として決定的な影響を与えた人物であるとともに、生涯親しい仲であった僧侶・虎哉宗乙(こさい そういつ)(1530~1611)の自筆の書状が発見された。
 この「宗乙書状」によって、義姫の伊達家出奔(しゅっぽん)の時期は文禄3年(1594年)11月4日であることが分かった。しかも当時は政宗と義姫との関係も良好だったことが記されており、毒殺事件は伊達藩による“捏造(ねつぞう)”であることがようやく判明したのである。
 
 義姫は兄である義光とわが子の政宗との融和にこれ努め、生家の最上家と嫁ぎ先の伊達家との紛争の回避に奔走した。
 とりわけ天正16年(1588年)には、伊達領と最上領の境の中山(上山市)に輿(こし)で乗り入れ、80日間もそこに留まって戦闘状態にあった両家を和平させている。
 義姫の“冤罪(えんざい)”が晴れた今、その功績にこれまで以上にスポットを当てるべきだろう。


~最上三代~その栄光と蹉跌/義姫は“毒婦”だったか?
松尾 剛次
プロフィール
●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。