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~最上三代~その栄光と蹉跌/有能だった嫡男・義康

2017年8月25日
 この原稿を書いている8月16日は、最上家の2人の人物の命日である。一人は駒姫の母である大崎殿、もう一人は義光(よしあき)の嫡男・義康(よしやす)である。

 大崎殿は、駒姫が三条河原で惨殺されたことを知ると、悲しみで食事も喉(のど)を通らず、結局、自害したと考えられている。文禄4年(1595年)8月16日のことだった。
 義康は武将として有能であったにも関わらず、謀叛(むほん)の疑いを着せられて高野山に配流されることになり、その旅の途中、庄内で殺害された。慶長8年(1603年)8月16日のことであった。
 大崎殿については以前に触れたので、ここでは義康に注目してみたい。

~最上三代~その栄光と蹉跌/有能だった嫡男・義康

 義康に叛意(はんい)ありとして配流しようとしたのは、次男の家親(いえちか)に家督を継がせることに決めた義光にとって義康の存在が邪魔になったからである。
 かといって殺すつもりまではなかったのだろう。義光は義康を討ち取った土肥(どひ)氏を斬罪(ざんざい)に処し、義康の菩提(ぼだい)を弔うため現在の鶴岡市と山形市に常念寺(じょうねんじ)を建立した。
 義光と父・義守(よしもり)との関係が愛憎半ばするものであったことは以前に紹介したが、義光と義康との関係もそうだった。 

 義康の有能ぶりは、慶長5年(1600年)9月に起きた「慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)」でもうかがえる。
 豊臣秀吉の死後、上杉景勝を征伐しようとする徳川家康は、義光に上杉攻めの奥羽軍の総責任者を命じる。家康自身、7月には現在の栃木県小山市のあたりまで兵を進めた。
 その小山で石田三成らの挙兵を聞いた家康は急きょ上杉征伐を取りやめ、兵を西に向ける。それにより東北の形勢は逆転し、義光は1人で上杉と戦うはめになってしまった。
 窮地に陥った義光は甥の伊達政宗に頼ることを決め、救援を求める使者として遣わせたのが義康である。
 
 義康はまた、庄内攻めの総大将として庄内平定に大きな役割を果たしている。政宗は義康の戦功を大いに評価し、義康のおかげで庄内攻めが成功したと述べている。
 なぜ義光が有能な義康ではなく、家親を後継者に選んだかについては別の機会に触れよう。


~最上三代~その栄光と蹉跌/有能だった嫡男・義康
松尾 剛次
プロフィール
●(まつお・けんじ)1954年長崎県生まれ。東大文学部国史学科卒業後、山形大講師、助教授を経て98年から教授。