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~最上三代~その栄光と蹉跌

 豊臣秀吉が天正18年(1590年)7月に後北条氏を倒して天下を掌握したのに伴い、最上義光と伊達政宗はそろって妻子を人質として京都へ上らせた。同年8月のことであった。 
 最上氏の人質として上洛したのは嫡子・義康だったと考えられる。
2018年7月13日
 北の関ヶ原と呼ばれ、慶長5年(1600年)9月15日に始まった長谷堂城合戦に勝利した義光は、20万石の大名から57万石の大大名へと大躍進を遂げる。それに伴い、広大になった領国を誰に譲るかという後継者問題が浮上してきた。
2018年6月22日
 昨年の山形城址の発掘により、金箔(きんぱく)の施された鬼瓦が多数見つかった。すでに金箔(おにがわら)の施された軒丸瓦(のきまるがわら)は発見されていたが、昨年の発掘で最上義光時代の山形城は黄金色に輝いていたことが証明されたのである。
2018年5月11日
 最上義光は57万石の大大名となり、数多くの家臣を抱えることとなった。この最上家臣団の実態を知るうえで、「分限帳(ぶげんちょう)」という史料がある。
 家臣の名前、何石を与えられているか、負担する役はどのようなものかなどを記したものだ。
2018年3月9日
 最上義光は奥羽の関ヶ原合戦に勝利した恩賞として、庄内地方のみならず秋田南部をも併せて57万石の大大名となった。伊達政宗が62万石だったことを思えば、その大きさが想像できよう。
 義光はまさに一世一代の賭けに勝ったのである。失敗すれば家臣団とともに、この世から消滅していたかもしれない。
2018年2月23日
 慶長6年(1601年)4月、最上義光(もがみ よしあき)の嫡男・義康(よしやす)の総指揮のもと、下吉忠(しも よしただ)、鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)らの奮戦によって志駄義秀(しだ よしひで)が籠もる酒田城を落とし、ここに義光による庄内攻略作戦は完了した。
2018年2月9日
 関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600年)9月15日に東軍の徳川家康方の勝利で幕を閉じた。「北の関ヶ原」と言われた長谷堂城攻防戦も、10月1日に上杉軍の撤退でひとまず終わった。だが最上義光(もがみ よしあき)の戦いはそれで終わったわけではなかった。義光は直ちに兵を庄内に向けたのだった。
2018年1月26日
 山形大学博物館には長谷堂城にあった門扉(もんぴ)が常設展示されている。従来は正門の門扉とされてきたが、近年の科学的な分析によっても、それが正門の門扉であるか否かは分明ではないが、いずれにせよ長谷堂城のどこかの門扉であるのだろう。
 その前に立ち、志村光安(しむら あきやす)、鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)らが兵を率いてくぐった様を思うと、長谷堂城攻防戦にかけた最上勢の熱き思いに胸が打たれる。
2017年12月22日
 慶長5年(1600年)9月15日に始まった長谷堂城の戦いは、最上義光(もがみ よしあき)の人生における最大の危機であった。直江兼続(なおえ かねつぐ)を総大将とする2万5000もの上杉勢が、志村光安(しむら あきやす)らが守る長谷堂城を強襲したのだ。
2017年12月8日
 長谷堂城祉のふもとに「主水塚(もんどづか)」と呼ばれる石碑がある。長谷堂城の戦いで討ち死にした上泉主水泰綱(かみいずみ もんど やすつな)と戦死者を供養するものだ。
 上泉は直江兼続(なおえ かねつぐ)率いる上杉軍の侍大将の一人であるばかりか、会津一刀流の開祖でもあった。長谷堂城合戦は剣の達人の上泉までも命を落とすほどの激戦だったことが分かる。
2017年11月24日
 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いは徳川家康(とくがわ いえやす)による天下掌握を決定づけた戦いで、天下分け目の戦いと言われるが、ほぼ午前中で片が付いたとされる。
2017年10月27日
 「罪をきる、弥陀(みだ)の剣にかかる身の、なにか五つの障りあるべき」――これは文禄4年(1595年)8月2日、豊臣秀次に連座して三条河原で斬首された駒姫の辞世の歌である。
2017年10月13日
 天正18年(1590年)は日本史上における一大画期であった。豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、天下統一を完成させたからである。
2017年9月22日
 ひと昔前、「戦後強くなったのはストッキングと女性」といわれたことがあったが、今から400年以上も昔の最上家にも後世にその名をとどめる“烈女”がいた。最上義光(もがみ よしあき)の妹・義姫(よしひめ)である。
2017年9月8日
 この原稿を書いている8月16日は、最上家の2人の人物の命日である。一人は駒姫の母である大崎殿、もう一人は義光(よしあき)の嫡男・義康(よしやす)である。
2017年8月25日
 最上義光(もがみ よしあき)は天正2年(1574年)に父・義守との覇権争い、世に言う「天正最上(てんしょうもがみ)の乱」に勝利し、ようやく独自の判断でその勢力を拡大していけるようになった。いわば、最上家当主義光の時代の到来である。
2017年8月11日
 前号で最上義光(もがみ よしあき)と父・義守(よしもり)との相克(そうこく)を紹介し、2人が雌雄(しゆう)を決した「最上の乱」について触れたが、最上の乱といえば義光の弟・義時(よしとき)を抜きにしては語れない。
2017年7月28日
 親子の関係というのは微妙で、愛憎(あいぞう)半ばすることがままある。とりわけ親が成功者として実力、名望ともにある場合はなおさらのようである。
2017年7月14日
 今回は最上義光(もがみ よしあき)の妻に注目してみたい。
 義光の妻といえば「大崎殿(おおさきどの)」が有名で、悲劇のヒロインとして知られる駒姫(こまひめ)の母であり、義光の嫡男・義康(よしやす)、次男で2代目当主の家親らの母と考えられてきた。
2017年6月23日
 前号で最上義光(もがみ よしあき)の印判(いんばん)(印章のこと)について記述したが、今号はその続きを記してみたい。
2017年6月9日
 前号では義光(よしあき)の花押(かおう)、つまりサインに注目したが、今号では義光の印判(いんばん)についてみてみよう。領土が拡大し、それに伴って家臣の数が増大すると、義光も自ら花押を書くのではなく、印判を捺(お)す場合が増えていく。
2017年5月26日
 最上義光(もがみ よしあき)の人となりを理解するうえで、花押(かおう)と印判(いんばん)は重要である。現代風に言えば、花押はサイン、印判は印章だが、当時は(現代も?)直筆の花押の方が重要視されていたようだ。
 ファンが直筆のサインを欲しがるように、当時の武士たちも〝判で押したような〟印判より、直筆の花押が記された文書の方を求めたのである。
2017年5月12日
 左の図は、山形市指定有形文化財「文殊菩薩騎獅像(もんじゅぼさつきしぞう)」(以下、文殊像)である。山形市八日町の宝光院(ほうこういん)に伝わり、現在は山形大学の所蔵になっている。
2017年4月14日
 前号では「尼崎本『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』」(以下、尼崎本)に描かれた最上義光(もがみ よしあき)像を取り上げた。
 尼崎本には天正20年(1592年)、京都の東西を走る「中立売通(なかだちうりどおり)」を聚楽第(じゅらくてい)に向かう後陽成(ごようぜい)天皇の行幸が描かれおり、武家屋敷の門前で正装した姿で正座して見守る人物が最上義光であろうと推測した。
2017年3月24日
 従来、最上義光(もがみ よしあき)の相貌(そうぼう)を知る手がかりとされてきた「長谷堂合戦図屏風」の義光像に疑義が呈されていることは先号で述べた。 
 個人的には従来の義光像が実像に近いという一縷の希望を捨てたくはない。そんな思いでいたところ、偶然にも興味深い画像を見つけた。「尼崎本洛中洛外図屏風(あまがさきぼんらくちゅうらくがいずびょうぶ)」(以下、尼崎本)」である。
2017年3月10日
 最上義光(もがみ よしあき)はどんな相貌(そうぼう)をしていたのだろうか。それが分かれば人柄などをあれこれ推測する有力な手がかりになり得る。
2017年2月10日
 昨年11月、最上義光(もがみ よしあき)歴史館の前庭に最上義光立像が建てられた。山形西ロータリークラブが彫刻家の雨宮透氏に制作を依頼した像で、すでに御覧になった方も多いだろう。
2017年1月27日
史実に基づく義光像を
2017年1月13日